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2014年7月21日 (月)

第三回ガイド養成講座

安堵観光ボランティアの会 ガイド養成講座 第3回

日時 : 7月18日(金) 10:00~12:00
場所 : カルチャセンター3F 会議室
テーマ: 
「大和川舟運と安堵」 
講師 : 天理大学非常勤講師 吉田 栄治
郎 氏

 つい先日奈良県で36.8度を記録したばかりの連日の猛暑。
熱心な受講者の方々を前に、気さくな語り口で吉田先生の講義がスタート。

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古来より陸路と共に各地で河川を利用した水路が発達、利用されて来ました。

奈良県を代表する吉野川(紀ノ川) 十津川・北山川(熊野川) 大和

中でも安堵の歴史を紐解くとき重要な大和川は、奈良市・桜井市の境の貝ケ平山が源流と言われ、都祁水分神社近くの藺生(いう)を分水嶺(木津川・大和川)として、奈良盆地を南東から西北へと横切り流れ、佐保川・寺川・飛鳥川・富雄川などなど多くの川と合流しながら、大規模な地滑り対策工事中の柏原・亀の瀬を抜けて、河内平野へ流れ出る川である。

・・・
>そう言えば数年前、亀の瀬の現場での見学会。ヘルメットを被
り構内へ入ったり、展示場で地層や工事の説明を受け、
「昭和37年からだって!」「自然を相手に何とも凄い・・・・」
参加者一同、驚嘆したことを思い出しました。<
・・・

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 ↑
左端の図が亀の瀬の地層の説明図です

河内平野を北へ流れて上町台地の北を回り淀川と合流して海に流れ出た
昔の大和川は、葛城山からの土砂の流出・堆積によって、しばしば氾濫を起こし、八尾・東大阪など河内地方の農民にとって問題の多い川でした。

平安時代、和気清麻呂による流路付け替え工事(失敗)を初め、何度も試みられた対策は成功せず、江戸時代(1657年)に東大阪の中甚兵衛が付け替えを計画、幕府に嘆願するも却下される。

以来50年間にわたる嘆願に漸く許可が下り、1704年2月より240万人が動員された工事がスタート。
わずか8カ月後の10月に流路を西(堺方面)に変えた新大和川が完成している。低湿地になった元の流路一帯は干拓され、鴻池新田・深野新田など30ケ所・1000町歩を超える新田が作られた。


 さて、本題の奈良での大和川の話に戻りましょう。

日本書紀の推古16年(608年)の記事などに見らえるように、奈良時代以前から交通路として利用されていました。

「遣隋使小野妹子が裴世清(はいせいせい)など12人の使人と共に筑紫に帰国」

「難波の高麗館(こまのむろつみ・・中央区高麗橋付近)の近くに新しく難波館(なにわのむろつみ・・東淀川区江口付近)を造る。船史 王平が接待

「一行が飛鳥へ入京。海石榴市(つばいち・・桜井市三輪・金屋付近)にて迎える。 大和では額田部連 比羅夫が接待」

などが記されています。これらから推測すると、一行は難波館から大和川を遡り初瀬川沿いの海石榴市へ着いたと考えられます。

(当時陸路で大和へ入るとなれば現・竹ノ内街道を越え、海石榴市には出ることは考えにくいので)

また、額田部氏は古くから大和郡山額田部付近を拠点とする氏族であり船氏は百済王族 王辰爾の末裔であり額田部北町の船墓古墳(融通寺)は船氏の墓とも・・・。
額田部・船の両氏は大和川を見下ろす丘陵に拠り、舟運を支配していたと思われます。
対岸の川西町島の山古墳・河合町大塚山古墳の被葬者も大和川舟運に関わった可能性は高いでしょう。

・・・ここでチョット・・・おもしろ雑学・・・

江戸時代に柏原市国分から「船氏王後」墓誌が出土(国宝に指定される)。
長さ29.4㎝巾6.7㎝の鍛造の銅版の表には、出自と経歴が4行86文字、裏には没年(641年)と埋葬経緯が4行76文字で記されている。
船氏の氏寺とされている羽曳野市の野中寺の北側には竹ノ内街道が通り
大和・河内の陸路の要でもあります。
こうしたことから船氏一族が当時、水陸両方で通路に関与しての実力を
持っていたことが伺えます。

さて、いよいよこれからは前回講座で教わった「虚実皮膜」の世界へ
吉田先生と共に♪

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日本書記 推古18年(610年)の記載の一部に

「新羅・任那よりの使人を額田部連 
比羅夫・膳臣大伴が出迎え
阿斗
河邊館(あどかわべのむろつみ)』で接待した」
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では「阿斗河邊館」はどこにあったのでしょうか?

候補地は

①初瀬川に近い田原本町阪手の付近
大和川沿いの安堵町窪田阿土 付近

があります。どちらも確かな史料が有るわけではないが、接待者の額田部氏の拠点に隣接した阿土⇔阿斗の地名から②に軍配を上げたいところです。

さらに有力な理由を次にあげましょう。

Photo
その一≫

万葉集巻1(710年頃)  藤原の京より寧楽の宮に 遷
りませる時の歌(詠み人知らず)

・・(略)・泊瀬の川に 舟浮けて 我が行く川の・・(略)・・青によし 奈良の都の佐保川に い行き至りて・・(略)・・

この歌から藤原京から平城京に行く為、川舟を使っていた様子が分かります。泊瀬(初瀬川)を北流すれば、額田部付近で佐保川と合流。
佐保川を北流すれば平城京に至ります。

候補地②の阿土は、正に初瀬川と佐保川の合流地点に位置するのです。
「阿斗河邊館」のような何らかの舟客用の施設が奈良時代以降にも有ったことが推測されます。



≪その二≫

平安時代中期の歌人・相模の歌集「相模集」


「神無月はつせに まうずるに」で始まる一連の道中の歌を詠んだ記録がある。
この歌によれば、相模は稲荷から奈良を経て、「あとむらのさと」で一泊。
天理の「すがた池」「良因寺」「ふるの社(布留社・石上神宮)」「楢の鳥居(櫟)」を経て長谷寺に。

奈良からの陸路上つ道・中つ道・下つ道を通ったとすれば阿土⇔「あとむらの里」とはだいぶ離れているが、もし佐保川を舟で来たとすれば、大和川との合流地点の阿土⇔「あとむらの里」に泊り、阿土から真東に位置する「すがた池」から更に東の「石上神宮」などを経て長谷寺へ詣でることは可能である

では、田原本町坂手を「あとむらの里」と仮定してみよう。この場合、宿泊地から一度来た路を戻らねば、「すがた池」をはじめとする各所を訪ねることは出来ないので現実的なコースではない。

こう考えると「阿斗河邊館」が阿土に有って、その名残が舟運を利用する人の為の宿泊施設として平安期にも「あとむらの里」に存在していたと推定するに至るのです。

如何でしたでしょうか?有意義な講義はまだまだ続き、難しいところも有りました。ブログでは全てをお伝えできないのが残念です。

いよいよ今年の養成講座もあと1回だけとなりました。
最後は「ガイド
の実践」です。
軽~~い気持ちで安堵を少しだけ
一緒に歩いてみませんか♪

 第4回ガイド養成講座 

 日時 : 7月28日(月) 午前10時~

 集合場所 : 安堵町歴史民俗資料館 前

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コメント

安堵は大和川とともに成り立ってきたことがとてもよくわかりました。川運の要衝として賑わいが想像でき楽しいお話でした。

投稿: 洋子 | 2014年7月22日 (火) 03時20分

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