町民の安堵町再発見 ~岡崎・窪田(阿土墓地)編~
~安堵町再発見~ 阿土墓と岡崎川散策
令和3年6月12日(土) 集合9:30カルチャセンター 解散11:30安堵中央公園
参加者 6名 スタッフ 11名
集合・スタート
雨の天気予報も運よくまぬがれ強い陽射しも無いウォーク日和。スタッフの勉強会も兼てのスタート!
「あれ?今日はワクチン接種無いの?」「多分、午後からじゃないかな」
東安堵集落の東南 大和屋自動車(株)の前
この地は古くから東安堵集落の入り口として人々への広報・祭祀の場だったのではとも伝えられている。
赤〇印 ほうけんと(宝篋印塔) 五輪の仏塔
黄色〇印 梨の功労者顕彰碑(明治42年宮島榮太郎)当時は梨が安堵特産品
岡崎 妙楽寺
本尊 阿弥陀如来立像(本尊台座には「聖徳太子御作也」と江戸時代の墨書あり)不思議?!
本堂には「ブゼンサマ」と呼ばれ慕われた岡崎・東安堵の領主として在任中岡崎川治水に尽力したと伝えられる奈良奉行・溝口豊前守の位牌が祀られています。
妙楽寺から子守神社へ
子守神社
水害に悩まされた岡崎が吉野山子守神社を勧請したと思われる。水分(みくまり)➡みこもり➡子守(こもり)と転訛したと言われる。
コロナ対策のマスクをした拝殿前の狛犬
菊のご紋がある本殿 祭神は石巣比売命(いわすひめのみこと)江戸時代に中宮寺から寄進された金幣が収められている。老朽化のため、現在の本殿は昭和58年に建て替えられました。
岡崎川 「あどばし」 地元で成長したガイドから、こどもの頃の阿土墓への葬列の様子や岡崎川の流路変更の改修の話などを聞く
阿土墓
中央部に西安堵、その北側に岡崎、東側に吐田、南側に窪田、西側に東安堵の墓が広がります。それらの中に小高い墓地が四か所ありますが、これらはいずれも大和郡山市額田部北町から続く来迎墓ノ間古墳群の中の古墳が墓地に転じたもの。
***阿土墓では毎年8月10日に墓会式が行われます。墓郷の家々では早朝から家族や親戚なども一緒に墓参。墓前に御供えものをし、ろうそくに点火。旦那寺住職の回向を受けた後、帰省した親戚と共に朝ごはんを食べたりした頃もあったそうです。また、墓の入り口付近にはみたらし団子などの露店も出て賑わったそうです。当時を知る人からの思い出話にも花が咲きました。***
墓地東入口の鳥居 等覚門(門の手前は現世を表す)付近でのガイドの説明
ピンク〇印 聖武天皇石像 江戸時代1829年(文政12年)墓郷村々からの寄進により造られた
白い〇印 行基菩薩供養塔 行基の命を受けた弟子の志阿弥が路傍に打ち捨てられた遺体を集めて火葬に付し、その子孫が許しを得て墓地を管理するようになったとの言い伝えがあり、奈良の多くの郷墓に残る供養塔。その中で阿土墓の無縫塔(卵塔)形式のものは殆ど無く、大変珍しいものです。写真では分かり難いですが、卵のような形の仏塔です。
鳥居の右手奥には以前は座棺を載せて葬送する蓮台が在ったそうです
阿土寺 墓地内にある律宗寺院で墓地を管理する墓寺。入口に涼やかな紫陽花がひっそりと。
寺守の方がお庭にいらしたので本堂を拝観させて頂きたいとお願いしてみました。
本堂入口から中を拝観、奥の間に阿弥陀如来坐像など。これも仏様のお導きでしょうか?ありがとうございました。
暗くて写真が上手く撮れてませんが、雰囲気はお伝えできるかと。
かかし公園・太子道 町の「にぎわいづくり」で始められたかかし制作。それを集めた展示場のかかし公園は太子道沿いにあります。高さ12mの「オブジェかかし聖徳太子」は公園のシンボル。その視線の先には法隆寺があります。
出迎えてくれたのはコロナ禍を反映した「医療従事者の皆さんへの感謝」のかかし。「ありがとう」「皆でがんばりましょう!」
熱いハートの中央の聖徳太子。イケメンで頭脳明晰。今ならアイドル間違いなし。昔の人は太子道を黒駒で往来する彼をどんな思いで見ていたのかなぁ?不謹慎な妄想でごめんなさい。
今日の記念に皆で「はい!ポーズ」
かかし公園に別れを告げ安堵中央公園へ
お疲れさまでした。お気をつけて。
安堵町再発見は秋9月ごろを予定しております。詳しくは広報誌「あんど」に記載致します。
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