安堵町の紹介
安堵町は、世界文化遺産法隆寺の東部に隣接し、聖徳太子ゆかりの地で「太子道」が通っています。
また、
- 安堵町の歴史や伝統、民俗資料を展示・伝承する
「安堵町歴史民俗資料館」 - 近代陶芸の父、富本憲吉の作品を展示した
「富本憲吉記念館」 - 国指定重要文化財の環濠屋敷
「中家住宅」
など随所に文化や歴史的スポットがあります。
現在ガイドコースとして5コースを設定し、古の歴史と文化の香る安堵町をご案内いたします。
安堵町の紹介
安堵町の名前の由来その1 「安堵」という地名が確かな文献に現れるのは、延久2年(1070年)興福寺領「安堵庄」という荘園名で、 現在の東・西安堵につながる荘園だと考えられる。 古くから安堵町域は「アト」と呼ばれていた。現在でも「アト」にかかわりのある地名として、 阿土墓地・阿土 橋などの名前が町域には残されている。「アト」とは、本来河川に沿った平らな低地を意味する言葉のようです が、後になって「アト」という地名を漢字で示す際に、堵(ト)とは垣根の意味で、垣根の中に安んずるというめ でたい意味を持つ「安堵」という文字を当てたのではないかと考えられている。
安堵町の名前の由来その2 俗説では、聖徳太子が飛鳥の自宅より法隆寺に黒駒に乗って太子道を通われてきて,もう少しで法隆寺であ るこの地まで辿り着き“あんど”されたのでそう呼ばれるようになったのではないか。 飽波神社の境内には、太子が休憩された腰掛石がある。
安堵町が輩出した近世代の人物
・富本憲吉 富本憲吉は、古典的な日本美をすばらしい近代感覚でとらえなおし、気品ある模様と器形の追求をすることで 伝統に立脚しながらも技術偏重に泥(なず)むことなく、たえず新鮮な感覚で<芸術>としての陶芸をおしすす め、近代陶芸の父と言われている。昭和30年 第1号人間国宝(色絵磁器の技術保持者=重要無形文化 財)を受賞(浜田庄司、荒川豊蔵、石黒宗麿の4人・・・・・・「日本工芸会」発足)昭和36年には文化勲章を受 章。 ・今村勤三 若干20歳の若さでその能力、才幹が評価され明治5年安堵町全域と大和郡山市の一部、斑鳩町の一部の 行政担当者となる。明治9年、奈良県と堺県が対等合併堺県となり、その後大阪府に併呑され、大和がいろ いろと不利益を受けたため、明治14年(1881年)大阪府会議員となっていた勤三は、奈良県分離独立運動 に立ち上がる。奈良県再設置運動は、その請願を再三却下され、運動は下火になったりしますが、勤三はあ きらめず6年間の紆余曲折の末、明治20年9月末、内務大臣山形有朋、大蔵大臣松方正義に分離独立の了 解を得、同年11月4日勅令59号により奈良県が認められた。 勤三は奈良県の生みの親”と言われる所以(ゆえん)である。四男荒男(あらお)氏は大阪帝国大学総長・成人 病センター初代所長・文化功労者賞等。
中家住宅(なかけじゅうたく) 住所:安堵町窪田133番地 ・中氏の祖先 (窪田氏) 中氏はもと足立氏と称し、現三重県鈴鹿市の土豪と伝えられ南北朝時代に足利尊氏に従って大和に入り窪 田の姓を名乗ってこの地に居館を定めました。暦応2年(1339年)12月に岡崎庄・笠目庄・窪田庄を室町幕 府より拝領し、窪田対馬守康秀を名乗ったと伝えられています。のち明徳2年(1391年)に中氏と改めまし た。(この窪田氏が、中氏・石田氏の祖先です。) ・中家住宅 中家住宅は、上窪田の環濠屋敷を形成しています。環濠屋敷とは、大和に多い環濠集落(垣内式集落ともい われている)の一種で、防備、水利、排水、などの目的により鎌倉時代の終わり頃に発生した集落の形式の ことで中家は総面積3,500坪の広大な屋敷構えを持ち、二重の濠に囲まれた、平城形式を取り入れた武家 造りと農家造りを兼ねた中世環濠屋敷の姿を良く留めています。 昭和43年4月25日に主家・新屋敷・表門が重要文化財に、昭和46年4月28日に新蔵・米蔵・乾蔵が追加さ れ、さらに昭和53年5月31日に米蔵及び牛小屋・持仏堂・持仏堂庫裏と、宅地・山林及び溜池(濠)が指定さ れた。
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