カテゴリー「町民の安堵町再発見」の5件の記事

2021年9月20日 (月)

町民の安堵町再発見 ~窪田と川西町散策~

 

 ~安堵町再発見~     窪田と川西町散策

R3年9月19日()集合 9時半 安堵中央公園 解散 11時半予定

参加者 12名    スタッフ 10名

 

安堵中央公園

台風も無事通り過ぎ 爽やかな秋の日。思いがけず多くのご参加を頂きスタート!

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常徳寺

S37年の大和川河川改修工事で現在地に移転。山門は有名な宮大工棟梁西岡常一が手掛けたそうです。境内には室町時代のものと思われる五輪塔残欠がいくつも残り、この寺の歴史が偲ばれます。  ご本尊は阿弥陀三尊立像(江戸時代の作)

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馬場尻橋  (この橋を渡ると川西町)

写真は川西側から下流を望み、富本憲吉が釣りを楽しんでいる時、急に降り出した雨の中で咄嗟にマッチの消し炭でのスケッチをもとに描かれた安堵風景「大和川急雨」のエピソードを説明。

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大和川越しの青空の下に広がる安堵の集落

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圓海山 南陽寺

曹洞宗(大本山・永平寺)の禅宗寺院。山門だけでと思っておりましたら、ご住職(写真右側の銀杏古木の下の袈裟姿が門内に招きいれて下さり、境内からご本尊(釈迦如来)を御参りさせて頂きました。キャンディありがとうございました。 

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川西の 杵築神社

創建年代不明だが、1183年安堵中窪田へ分祀の記録あり。その後、両神社とも大和川河川改修のおり、それぞれ現在の場所に移転。なんだか不思議な縁を感じますね。

また河川改修の際、寺川との合流点付近で縄文~室町時代に栄えた集落跡(字名から南吐田遺跡)が見つかった。

美しく砂紋引きされた境内の敷き砂・・「踏むのがもったいないなぁ」
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油掛地蔵尊 

川西町吐田の田園風景の中にある舟型光背の地蔵立像。1523年銘文あり。

言い伝え・・・村人が田の中から泥まみれの地蔵を見つけ綺麗に洗いお祀りしたら急な腹痛に見舞われました。元のとおり泥を塗りお祀りすると腹痛は治りました。あるときクサ(瘡)➡(湿疹、できもの)ができた子供がお地蔵さまに触れると不思議なことにクサは綺麗に治ったそうです。それからは出来ものを治してくれる地蔵様としてお祀りされ、願いが叶った日に油を掛けた風習が今も続いています。油で顔の造作も分からない程、黒光りしたお姿には何やらホッコリしました。

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板屋ヶ瀬橋

川西から橋を渡り再び安堵へ。橋の中央付近で昔の大和川水運の板屋ヶ瀬浜、問屋、梁船などの説明を。

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おかげ灯籠   伊勢神宮への献灯の為に

「おかげ灯籠」「おかげ参り」「おかげ踊り」共に伊勢信仰のひとつ。伊勢講の人々が村の境界や鎮守の森に建てたもので、安堵町内にも四基ある。

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八王子神社  

昔は牛頭天王の八王子が祭神➡明治の神仏分離➡以降の祭神はスサノオ命の五男三女神

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中家住宅  国の重要文化財に指定

個人住宅では類を見ない二重の環濠住宅

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大和棟が美しい母屋(切手にもなっている)

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かかし公園  オブジェかかし聖徳太子

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青空と白い雲  秋の彼岸も間近。一日も早くコロナが終息しますように!

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予定通りに解散!

「歩いて初めて橋の向こうへ渡った。知らない場所。吐田って名前は聞いてたけど近いんだね。」

「窪田・吐田に嫁にやるも荷物 持たすな」と里うたにもあるように、共に低地で川を隔てて日々の営みが村人の交流の中で育まれたのでしょう。」

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2021年6月23日 (水)

町民の安堵町再発見 ~岡崎・窪田(阿土墓地)編~

 ~安堵町再発見~  阿土墓と岡崎川散策

令和3年6月12日(土)  集合9:30カルチャセンター  解散11:30安堵中央公園

参加者 6名  スタッフ 11名    

 

集合・スタート

雨の天気予報も運よくまぬがれ強い陽射しも無いウォーク日和。スタッフの勉強会も兼てのスタート!

「あれ?今日はワクチン接種無いの?」「多分、午後からじゃないかな」

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東安堵集落の東南 大和屋自動車(株)の前

この地は古くから東安堵集落の入り口として人々への広報・祭祀の場だったのではとも伝えられている。

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赤〇印   ほうけんと(宝篋印塔) 五輪の仏塔 

黄色〇印  梨の功労者顕彰碑(明治42年宮島榮太郎)当時は梨が安堵特産品

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岡崎 妙楽寺

本尊 阿弥陀如来立像(本尊台座には「聖徳太子御作也」と江戸時代の墨書あり)不思議?!

本堂には「ブゼンサマ」と呼ばれ慕われた岡崎・東安堵の領主として在任中岡崎川治水に尽力したと伝えられる奈良奉行・溝口豊前守の位牌が祀られています。

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妙楽寺から子守神社へ

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子守神社

水害に悩まされた岡崎が吉野山子守神社を勧請したと思われる。水分(みくまり)➡みこもり➡子守(こもり)と転訛したと言われる。

コロナ対策のマスクをした拝殿前の狛犬

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菊のご紋がある本殿  祭神は石巣比売命(いわすひめのみこと)江戸時代に中宮寺から寄進された金幣が収められている。老朽化のため、現在の本殿は昭和58年に建て替えられました。

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岡崎川 「あどばし」   地元で成長したガイドから、こどもの頃の阿土墓への葬列の様子や岡崎川の流路変更の改修の話などを聞く

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阿土墓

中央部に西安堵、その北側に岡崎、東側に吐田、南側に窪田、西側に東安堵の墓が広がります。それらの中に小高い墓地が四か所ありますが、これらはいずれも大和郡山市額田部北町から続く来迎墓ノ間古墳群の中の古墳が墓地に転じたもの。

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***阿土墓では毎年8月10日に墓会式が行われます。墓郷の家々では早朝から家族や親戚なども一緒に墓参。墓前に御供えものをし、ろうそくに点火。旦那寺住職の回向を受けた後、帰省した親戚と共に朝ごはんを食べたりした頃もあったそうです。また、墓の入り口付近にはみたらし団子などの露店も出て賑わったそうです。当時を知る人からの思い出話にも花が咲きました。***

 

墓地東入口の鳥居 等覚門(門の手前は現世を表す)付近でのガイドの説明

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ピンク〇印  聖武天皇石像   江戸時代1829年(文政12年)墓郷村々からの寄進により造られた

白い〇印   行基菩薩供養塔  行基の命を受けた弟子の志阿弥が傍に打ち捨てられた遺体を集めて火葬に付し、その子孫が許しを得て墓地を管理するようになったとの言い伝えがあり、奈良の多くの郷墓に残る供養塔。その中で阿土墓の無縫塔(卵塔)形式のものは殆ど無く、大変珍しいものです。写真では分かり難いですが、卵のような形の仏塔です。

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鳥居の右手奥には以前は座棺を載せて葬送する蓮台が在ったそうです

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阿土寺  墓地内にある律宗寺院で墓地を管理する墓寺。入口に涼やかな紫陽花がひっそりと。

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寺守の方がお庭にいらしたので本堂を拝観させて頂きたいとお願いしてみました。

 

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本堂入口から中を拝観、奥の間に阿弥陀如来坐像など。これも仏様のお導きでしょうか?ありがとうございました。

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暗くて写真が上手く撮れてませんが、雰囲気はお伝えできるかと。

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かかし公園・太子道  町の「にぎわいづくり」で始められたかかし制作。それを集めた展示場のかかし公園は太子道沿いにあります。高さ12m「オブジェかかし聖徳太子」は公園のシンボル。その視線の先には法隆寺があります。

出迎えてくれたのはコロナ禍を反映した「医療従事者の皆さんへの感謝」のかかし。「ありがとう」「皆でがんばりましょう!」

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熱いハートの中央の聖徳太子。イケメンで頭脳明晰。今ならアイドル間違いなし。昔の人は太子道を黒駒で往来する彼をどんな思いで見ていたのかなぁ?不謹慎な妄想でごめんなさい。

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今日の記念に皆で「はい!ポーズ」

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かかし公園に別れを告げ安堵中央公園へ

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お疲れさまでした。お気をつけて。

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安堵町再発見は秋9月ごろを予定しております。詳しくは広報誌「あんど」に記載致します。

 

 

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2020年9月13日 (日)

安堵町再発見(筒井順慶ゆかりの地をめぐる)

 

~安堵町再発見~

 筒井順慶ゆかりの地をめぐる

 

開催日時 令和2年9月12日( AM9時半 集合(カルチャーセンター)11時半 解散(カルチャーセンター)

参加者  7名     スタッフ  8名

 

残暑厳しい秋 コロナ禍の中 久しぶりの活動再開は町民の皆さまと共に 町内をめぐり再発見のウォーキングになりました。予定のコースはいつも通る道や、まだ通ったことのない路など。

 

天理軽便鉄道大和安堵駅跡

大正4年開通(新法隆寺~天理)→大正5年(大和安堵駅設置・駅前には商店街ができ、安堵の玄関口として賑わいました。)→大正10年(新法隆寺~平端折り返し運転)→昭和20年(線路供出・廃線)

 

安堵城跡  (戦国時代の領主・安堵氏の居城)・・・(写真は八王子神社)

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現在の安堵町役場の南から歴史民俗資料館にかけての一帯にあった。江戸時代初めにはまだ土塁があった。安堵氏は筒井氏と姻戚関係を結び安堵城を本拠に戦うも、1569年松永久秀に攻められ落城。今では跡かたもありません。

 

大宝寺   (江戸時代に融通念仏宗に転宗)

もと極楽寺塔頭のひとつで安堵氏の持庵と伝えられる。境内には1584年に亡くなった筒井順慶供養の五輪塔が残されている。

 

安堵城別館 (現在のうぶすなの郷TOMIMOTOレストラン兼宿泊施設

安堵氏が日常暮らした居館の場所。江戸時代には東安堵の大庄屋・富本家の屋敷地。後に人間国宝の陶芸家富本憲吉の生家として有名になる。

 

平楽寺 (飽波神社南の寺垣内にあり寺伝では聖徳太子開基とされる) *注*非公開

戦国時代の天正年間に筒井順慶、あるいはその一族により再興されるも、明治の廃仏毀釈により廃寺となる。本尊の地蔵菩薩立像は子安地蔵として今も尊崇を集め、寺垣内の人々により維持管理されている。

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十一面観音立像

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弘法太子坐像

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誕生仏

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参加者の声 「こんな所に路が有ったなんて!」 「行きどまり?どこへ続いてるの!?」

数珠繰りの大きな念珠の実物も見せて頂きました。スタッフの中にも平楽寺を訪ねるのは初めての者も居り、大変有意義な再発見でした。非公開にも関わらず拝観させて下さいました寺垣内の皆様ありがとうございました。

 

極楽寺     (聖徳太子建立の46カ寺の一つ「常楽寺」跡と言われている)

本尊の「阿弥陀如来」は重要文化財で平安時代の定朝様式。脇侍の「聖観音立像」は本尊より古い平安時代中期の一木彫り。また、奈良時代に書写された「大般若経」6巻をはじめ600巻が残されている。

本堂東のお堂には「広島大仏」と呼ばれる阿弥陀如来坐像が安置されている。かって広島西蓮寺で原爆被災者の心の拠り所となっていた仏様。

 

ほうけんと(宝篋印塔=ほうきょういんとう) 写真左端の 赤◎印

この場所(大和屋自動車前の道路南側)は東安堵集落の入り口で、宝篋印塔は仏塔(五輪塔)で疫病などが集落に入らないよう祈った祭祀場だったのでしょう。人々は顕彰碑を建てるなど生活の一部として大切にしてきたことが窺えます。

梨の功労者顕彰碑 写真の高い石碑 青◎印 明治42年に建てられた。

特産の安堵梨を確立させた功績者宮島榮太郎を顕彰したもの

関取顕彰碑     写真中央の低い石碑 黄色◎印 1819年江戸後期に建てられた。

石碑には「神楽山源右衛門、唐枩嘉右衛門、文政二己卯八月吉日、門弟中」と刻まれています。

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百日紅、百日咲き続けたピンクの花。残暑のなかにも秋を感じさせる青空。何気なく通り過ぎた町の一角にある歴史の足跡。皆さん 楽しんで頂けましたでしょうか。お疲れさまでした。

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9月26日のJRハイキングは、お知らせの通り実施いたします。爽やかな一日をご一緒に過ごしませんか?皆さまのご参加を心よりお待ち申し上げております。

                安堵観光ボランティアの会一同                  

 

 

 

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2019年9月26日 (木)

町民の安堵町再発見  ~東安堵編~

 

第二回

「町民の安堵町再発見」  東安堵編

実施日時  令和元年9月15日()     9:30出発~11:30  解散     

集合場所  カルチャーセンター前      参加者(スタッフを含む)20名

 

6月の第一回の西安堵・笠目編に続き、爽やかな秋晴れの中、東安堵へ向けて出発!


カルチャーセンター 集合風景

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とんがり帽子の赤い屋根安堵保育園」 西側の細い道が太子道

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太子道(南北)と業平道(東西)の交わる地点。写真左は法隆寺国際高校

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ここから、「法隆寺の五重塔」が見えます。(ピンクの楕円形)

「ホントだ!見えるんだ。」  「知らなかった!」
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「広峰神社」 業平道を少し東へ行くと民家の間に参道が・・・。

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祭神は「スサノオノミコト」 江戸時代には「牛頭天王」を祀っていました。

境内には無患子(ムクロジ)の実がいっぱい落ちていました。台風の風のせいかな?
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広峰神社北の「夜法(ヤップ)山」

陰陽師・蘆屋道満 ゆかりの地とも伝えられている。
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「善照寺 (浄土真宗本願寺派) 写真左より鐘楼・山門・太鼓楼

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樹齢250年冨生の松」 通称「根上がりの松」とも呼ばれる

「町内にこんな見事な松があったとは!」 「来て良かった」
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「本当に根上がりの松だ!凄いね。」 「迫力あるね!」
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ゆっくりと本堂に上がり見学させて頂きました。「ありがとうございました」
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蓮如上人 直筆「六字名号」・・・中央の掛け軸

今日ご参加の町民の皆様へと、ご配慮の公開。「南無阿弥陀仏」
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「本堂の絵天井も素敵やね!」 カメラの腕が今一つですが悪しからず
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秋ですね・・・ムラサキシキブ(コムラサキ)の実が境内の一隅に。
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「太子道」の説明板  福祉センター裏の北

「こんな所にも歴史があるんだ。」「知らないところがいっぱい。」
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「安堵駐在所」の信号   「ここまで来ると道がわかる。」

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「天理軽便鉄道跡」 「大和安堵駅」のあった付近

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「飽波神社」

鳥居の扁額「安久波社」の文字は人間国宝・陶芸家富本憲吉の揮毫 
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神社境内の「聖徳太子腰掛石」・・・太子の案山子が一休み

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安堵町文化観光館 「四弁花(しべんか)今年の8月1日開館

五弁の花「テイカカズラ」をモチーフに富本憲吉が四弁の花の連続文様として作品に描いたことに由来した観光館の命名です。因みに「テイカカズラ」は「ナデシコ」と共に、安堵町の花に指定されています。

「うぶすなTOMIMOTO」も写真右手の木立に見えます。
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「広報誌では知ってたけど、立派だね。」「避難所にもなるらしいね
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「極楽寺」   重文の「阿弥陀如来」の安置されている本堂

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「これ何だろう?」  「お顔が三面」  「阿修羅?!」

本堂近くの松の根元に、今まであったけ?初めて気がつきました。調べてみます。
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「広島大仏」   毎年8月6日には平和祈念式典があります。

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「安堵町歴史民俗資料館」  旧 今村邸

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デュランタ   

「この花、素敵!」「秋は紫色の花が多いね。桔梗や紫苑も。」
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「綿の花」  乾燥した綿が入口付近にありました。これは生きている綿。

「へぇ~!綿ってこんなの?」「蕾は淡いピンク」「花はコットンボール!」

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「大宝寺(融通念仏宗)

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境内には 「筒井順慶供養の五輪塔」 があります。
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「八王子神社」  消防署前の通りを南に入った所に在る。

祭神は「国狭土神くにのさつちのかみ」大将軍垣内の人々によって祀られている小社
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以上で本日の再発見ウォークは終わり。色々なご感想を写真と共に記しておりますが、写真には無い所でのご感想を少し。

「富本憲吉の窯の有った場所に作られた孫弟子・田中氏の安久波窯。初めて寄りました。」

「秋風が気持ち良かった。」

次回も「安堵町再発見」お楽しみに!皆さんも是非ご参加ください。お待ちしております。

 

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2019年6月23日 (日)

町民の安堵町再発見


第一回
  

「町民の安堵町再発見」   西安堵・笠目編  

令和元年6月16日()9:30~11:30  集合場所 カルチャーセンター前


知っているようで知らない自分が住んでいる町のこと。令和の新企画として、町民のみなさん向けの半日の町内ウォークをすることになりました。参加者は何人?とドキドキしながら出発までスタンバイ。

曇り空ですが、少し肌寒い(?)くらいの天候でウォーキングには絶好の朝。一人、二人と集合。スタッフ含めて19名。こどもさんもご一緒の参加でほっこりした雰囲気のスタートです。


安堵駐在所前の交差点

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天理軽便鉄道(新法隆寺駅~天理駅) 大和安堵駅の在った場所
  
大正5年の蒸気機関車のころには現在の安堵駐在所の裏側にありました。往路、天理へは天理教へお参りする人が乗りますが、お参りの後は殆どが奈良へ見物に回ったそうで、復路の汽車では当時、安堵で盛んにつくられた梨が運ばれたそうです。新法隆寺駅前には大きな青果問屋がありました。その梨畑も戦時下で稲作の田になりました。

「うちのお祖母ちゃんは『梨』のことを『有り』って言ってたよ.と参加者からの声。「梨」は「無し」と同じ音だから、反対の意味の「有りの実」と言い換えた。と物の本には書いてありました。

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その後、昭和にガソリンカーに変わったころには、駐在所東側(写真左の白い建物のある場所)に移転しました。東へ延びる道路は軽便鉄道跡です。

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故・辻本忠夫氏のスケッチ画の写真 大正3年の軽便鉄道の工事風景

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東安堵 橋本の布留街道 にある石の道標

飽波神社から西へ進んだ小さな交差点にあります。半分は埋まって( )の文字は今では見えません。右ほり(うし)」「左すてん(しょう)」右へ行くと安富橋から並松を通り法隆寺へ!左へ行くと明治22年に開通した大阪鉄道(現在のJR大和路線)法隆寺駅へ!   ステーション=すてんしょう  面白いですね。

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金剛・葛城・二上山を遠望 
軽便鉄道からも、この山々は見えたでしょう。

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木戸池の軽便鉄道遺構の説明板 池の中央には「築堤の鉄橋跡」が。

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安富橋の踏切  安堵町と斑鳩町の境界付近になります。

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江戸時代(徳川秀忠の頃)に富雄川右岸が決壊した地点

現在の正栄製作所の建物付近だったそうです。信じられませんね!

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法隆寺駅近くの田の中の遺構(レンガ)

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親子連れが水路でメダカを獲っていました。のんびり気分でウォーキング👣

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厳島神社  

安芸の厳島神社の末社で、阿波新家や笠目新家の人々の信仰を集めています。この辺りは斑鳩町阿波と安堵町笠目が入り組んで、同じ家でも半分は斑鳩・半分は笠目と言うお宅もあるとか。これは地元から参加された方からの「へぇ~!」なお話でした。

新家とは・・・江戸時代の富雄川決壊による大洪水の時に大量の土砂で埋まった田畑の上に阿波・笠目にまたがる阿波新家村と笠目新家村が作られたそうです。

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大福寺 笠目にある大念仏宗寺院。江戸時代(1672年)に真言宗から転宗。

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大福寺  「地蔵菩薩立像」 重要文化財

現在は奈良国立博物館に寄託されています。
素敵なお顔をされていますね。

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ご参加の皆様と一緒にガイドも勉強させて頂きました。まさに「再発見」でした!
次回の町内ウォークは9月15日(日)東安堵編を企画しております。是非、多数ご参加ください。詳しくは広報「安堵」にてお知らせいたします。有難うございました。

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