安堵町再発見(筒井順慶ゆかりの地をめぐる)
~安堵町再発見~
筒井順慶ゆかりの地をめぐる
開催日時 令和2年9月12日(土) AM9時半 集合(カルチャーセンター)11時半 解散(カルチャーセンター)
参加者 7名 スタッフ 8名
残暑厳しい秋 コロナ禍の中 久しぶりの活動再開は町民の皆さまと共に 町内をめぐり再発見のウォーキングになりました。予定のコースはいつも通る道や、まだ通ったことのない路など。
天理軽便鉄道大和安堵駅跡
大正4年開通(新法隆寺~天理)→大正5年(大和安堵駅設置・駅前には商店街ができ、安堵の玄関口として賑わいました。)→大正10年(新法隆寺~平端折り返し運転)→昭和20年(線路供出・廃線)
安堵城跡 (戦国時代の領主・安堵氏の居城)・・・(写真は八王子神社)
現在の安堵町役場の南から歴史民俗資料館にかけての一帯にあった。江戸時代初めにはまだ土塁があった。安堵氏は筒井氏と姻戚関係を結び安堵城を本拠に戦うも、1569年松永久秀に攻められ落城。今では跡かたもありません。
大宝寺 (江戸時代に融通念仏宗に転宗)
もと極楽寺塔頭のひとつで安堵氏の持庵と伝えられる。境内には1584年に亡くなった筒井順慶供養の五輪塔が残されている。
安堵城別館 (現在のうぶすなの郷TOMIMOTOレストラン兼宿泊施設)
安堵氏が日常暮らした居館の場所。江戸時代には東安堵の大庄屋・富本家の屋敷地。後に人間国宝の陶芸家富本憲吉の生家として有名になる。
平楽寺 (飽波神社南の寺垣内にあり寺伝では聖徳太子開基とされる) *注*非公開
戦国時代の天正年間に筒井順慶、あるいはその一族により再興されるも、明治の廃仏毀釈により廃寺となる。本尊の地蔵菩薩立像は子安地蔵として今も尊崇を集め、寺垣内の人々により維持管理されている。
十一面観音立像
弘法太子坐像
誕生仏
参加者の声 「こんな所に路が有ったなんて!」 「行きどまり?どこへ続いてるの!?」
数珠繰りの大きな念珠の実物も見せて頂きました。スタッフの中にも平楽寺を訪ねるのは初めての者も居り、大変有意義な再発見でした。非公開にも関わらず拝観させて下さいました寺垣内の皆様ありがとうございました。
極楽寺 (聖徳太子建立の46カ寺の一つ「常楽寺」跡と言われている)
本尊の「阿弥陀如来」は重要文化財で平安時代の定朝様式。脇侍の「聖観音立像」は本尊より古い平安時代中期の一木彫り。また、奈良時代に書写された「大般若経」6巻をはじめ600巻が残されている。
本堂東のお堂には「広島大仏」と呼ばれる阿弥陀如来坐像が安置されている。かって広島西蓮寺で原爆被災者の心の拠り所となっていた仏様。
ほうけんと(宝篋印塔=ほうきょういんとう) 写真左端の 赤◎印
この場所(大和屋自動車前の道路南側)は東安堵集落の入り口で、宝篋印塔は仏塔(五輪塔)で疫病などが集落に入らないよう祈った祭祀場だったのでしょう。人々は顕彰碑を建てるなど生活の一部として大切にしてきたことが窺えます。
梨の功労者顕彰碑 写真の高い石碑 青◎印 明治42年に建てられた。
特産の安堵梨を確立させた功績者宮島榮太郎を顕彰したもの
関取顕彰碑 写真中央の低い石碑 黄色◎印 1819年江戸後期に建てられた。
石碑には「神楽山源右衛門、唐枩嘉右衛門、文政二己卯八月吉日、門弟中」と刻まれています。
百日紅、百日咲き続けたピンクの花。残暑のなかにも秋を感じさせる青空。何気なく通り過ぎた町の一角にある歴史の足跡。皆さん 楽しんで頂けましたでしょうか。お疲れさまでした。
9月26日のJRハイキングは、お知らせの通り実施いたします。爽やかな一日をご一緒に過ごしませんか?皆さまのご参加を心よりお待ち申し上げております。
安堵観光ボランティアの会一同
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